「疑問を持つ」ということについて、アメリカの、神学者であり教師でもある方の話を聞いて考えさせられたことがあります。その方によれば、ご自身もキリスト教の家庭に育ちながらも、子供の頃、キリスト教に疑問を持ったそうです。そして、キリスト教伝道者であった父親に「自分はキリスト教が真実なのかわからない」と話したところ、父親は「息子よ、それは素晴らしいことだ」と答えたそうです。なぜかと聞くと「それは、真実かどうかということに真剣だからだ」と答えました。そして、「自分自身で真実と信じるかどうか決めなければならない」と話したそうです。その後、彼は自分の疑問点を挙げて探求して行きました。そして現在、彼自身もキリスト教の教師として、生徒が質問に来ることを歓迎していると話していました。
自分には、知っていること、知らないこと、知っていると信じていること、信じていること、分からないこと、などがあります。よくよく考えると分かっていないことがたくさんあります。これは宗教的、神学的なことに限りません。確信していると思っていることでも、突き詰めてみると実は薄っぺらい理解であったり、勘違いであることもあります。問題は、疑問にどう向き合うか、という姿勢にあるのだと思います。
文鮮明先生の自叙伝、「平和を愛する世界人として」を見てみますと、15歳の頃の逸話として次のような記述があります。
私自身、家庭連合が正しいのか、 亨進様が正しいのかと考えた時期がありました。家庭連合に対して非常に大きな、また多くの疑問があり、亨進様がほぼ正しいだろうと思っていたときにも、まだわからない点や疑問がありました。しかし、その後様々な点から総合しつつ、最終的には霊的な確信を得て、それが正しい道だと結論しました。
私はすべてを理解しているわけではありません。すべてを知っているわけではありません。しかし、確信していることもあります。
疑問を持つということは、正しいことです。神様が私たちに自由意思を与えているからです。神様の壮大な計画を、何年か経ってから気づくこともあるかもしれません。疑問を持つことを恐れず、探求することを怠らずに歩んでいけたらと思います。
また、いつも多くの示唆と刺激を与えてくれる、サンクチュアリの兄弟姉妹に感謝したいと思います。
自分には、知っていること、知らないこと、知っていると信じていること、信じていること、分からないこと、などがあります。よくよく考えると分かっていないことがたくさんあります。これは宗教的、神学的なことに限りません。確信していると思っていることでも、突き詰めてみると実は薄っぺらい理解であったり、勘違いであることもあります。問題は、疑問にどう向き合うか、という姿勢にあるのだと思います。
文鮮明先生の自叙伝、「平和を愛する世界人として」を見てみますと、15歳の頃の逸話として次のような記述があります。
「私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か」このように、教会に通って牧師に尋ねても解決しなかった本質的な問題に疑問を持たれ、祈りと探求の生活をされたのでありました。もちろん、私たちとは次元の異なる探求の道であったとは思います。
「人は死ねばどうなるのか。霊魂の世界は果たしてあるのか」
「神は確実に存在するのか。神は本当に全能のお方なのか」
「神が全能のお方であるとすれば、なぜ世の中の悲しみをそのまま見捨てておかれるのか」
「神がこの世を作られたとすれば、この世の苦しみも神がつくられたものなのか」
「日本に国を奪われたわが国の悲劇はいつ終わるのか」
「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」
「なぜ人間は互いに憎み合い、争って、戦争を起こすのか」
等々、実に深刻で本質的な問い掛けが私の心を埋め尽くしました。
「平和を愛する世界人として」P61
私自身、家庭連合が正しいのか、 亨進様が正しいのかと考えた時期がありました。家庭連合に対して非常に大きな、また多くの疑問があり、亨進様がほぼ正しいだろうと思っていたときにも、まだわからない点や疑問がありました。しかし、その後様々な点から総合しつつ、最終的には霊的な確信を得て、それが正しい道だと結論しました。
私はすべてを理解しているわけではありません。すべてを知っているわけではありません。しかし、確信していることもあります。
疑問を持つということは、正しいことです。神様が私たちに自由意思を与えているからです。神様の壮大な計画を、何年か経ってから気づくこともあるかもしれません。疑問を持つことを恐れず、探求することを怠らずに歩んでいけたらと思います。
また、いつも多くの示唆と刺激を与えてくれる、サンクチュアリの兄弟姉妹に感謝したいと思います。
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