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フロリダ集会で主の祈りを行ったメラニア夫人

2月18日にフロリダ州メルボルンで行われたトランプ大統領の集会では9000人(警察発表)の参加者が、トランプ大統領の力強く真実を貫こうとする素晴らしい演説に熱狂しました。 主流メディアの嘘をものともしない堅い決意と信念を表すその演説内容も素晴らしいものでしたが、冒頭のメラニア夫人の主の祈りにもまた感動しました。

せかいは新しくなる

キリスト教書店で子供に何か良い絵本はないかと探してみて、良いものが見つかりました。日本聖書協会が出しているシリーズの一つで「 せかいは新しくなる 」という絵本です。全36巻のうちの最後のもののようです。

夜の神様とイエス様と真のお父様

半年ほど前に「 三位一体 - イエスは神ご自身か 」という記事を書いていました。 イエス様は神ご自身ではないとする原理講論の内容は知っていましたが、その記事でも引用したように次の箇所があることにそのとき気づきました。 「原理は、これまで多くの信徒たちが信じてきたように、 イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない 。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである」 つまり答えはそう単純なものではないのです。また、夜の神様に関するお父様のみ言葉も引っかかるところでした。 その後、8月(2016年)にニューファンドランドのサンクチュアリ教会で行われた質疑応答の中で國進様と亨進様がこれに関連した見解を述べておられるのを見ました。

仮庵の祭りとイエス様

2016年10月16日の亨進様の説教 で、仮庵の祭りの話が出てきました。現在でもイスラエルではこの期間、会社などもお休みになるようです。 亨進様の説教の中でも「イエス様もこのような祭りの間に活動しておられました。テントの中で生活して。このような伝統の中で育てられました」と、語られていましたが、実際、福音書のヨハネの7章が、正にこの仮庵の祭りのときのものです。 (ヨハネによる福音書 7章 2節) 時に、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた。  イエス様は、兄弟たちに祭りに行くことを促されたものの断ります。 (ヨハネによる福音書 7章 8節) あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。   しかし、不思議なことに「ひそかに」祭りに行かれます。 (ヨハネによる福音書 7章 10-11節) しかし、兄弟たちが祭に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた。ユダヤ人らは祭の時に、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。  そして、祭りの半ばから教えを説きはじめるのです。 (ヨハネによる福音書 7章 14節) 祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。  (ヨハネによる福音書 7章 37-39節) 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである 不思議な場面だと思いませんか。密かに行動されたり、人目を避ける深い理由が何かあったのでしょう。神様との対話をされていたのかもしれません。

モーセとヨシュア、神が選んだ後継者

旧約聖書において一つの「巻」のタイトルともなっている人物、ヨシュアは、荒野で倒れたモーセに代わってイスラエルの民を神様の約束した地であるカナンへ導きました。ヨシュアがどのような路程をたどって、モーセの後継者となったのか、その道筋を追いつつ考察してみたいと思います。

九里聖地とナボテのぶどう畑

家庭連合はどこまで真のお父様(文鮮明師)を冒涜すれば気が済むのでしょうか?九里聖地売却決定の話は、心ある食口にとっても大きな悲しみとなったと思います。 私にはナボテのぶどう畑の話が想起させられます。

異端審問

キリスト教には黒い歴史があります。セルヴェトゥスは三位一体に異を唱えたために火炙りにされました。迫害者たちが信じたのは本当にキリストだったのでしょうか?彼らが信じたのは人間の権威であり、権力だったのではないでしょうか。権威は本来、神様とキリストにのみあるものです。

風森火山のブログ「 聖酒に対するサンクチュアリの対応に異議がある」という記事における誤謬

「風森火山のブログ」の記事「 聖酒に対するサンクチュアリの対応に異議がある 」における主張について、論じてみたいと思います。

クリスチャン・ソング"How Can It Be" の紹介(罪なき者まず石をなげうて)

ローレン・デイグル(Lauren Daigle)が歌うクリスチャン・ソング「How Can It Be」の紹介です。 この歌は、イエス様が姦淫の罪を犯した女を赦し愛されたエピソードを元に作られたそうです。下の聖句が歌のメッセージに関連する聖句だとされています。このエピソードは高校の英語の先生に教えてもらった思い出があり、当時は深い意味まで理解していませんでしたが、「罪なき者まず石をなげうて」と言う言葉が、ずっと記憶に残っていました。

亨進様とダビデの路程

リチャード・パンザー会長が、「 亨進様とヨセフの路程(英文) 」( 日本語訳はこちら )というすばらしいエッセイを書かれていますが、聖書の中の一つひとつの物語には、天の摂理のエッセンスが込められており、現在の私たちの歩みの中でも、通じるものがたくさんあると感じます。 パンザー会長の域には程遠いですが、私も聖書に基づく一つのエッセイとして、「亨進様とダビデの路程」について書いてみたいと思います。

三位一体 - イエスは神ご自身か

非クリスチャンだった方(食口)がキリスト教を勉強すると、いくつかの問題にぶつかることがあるかもしれません。その一つが、 イエス様は神ご自身か? という問題です。原理講論を読めば、分かることではありますし、多くの賢明な皆様には「釈迦に説法」かもしれませんが、 キリスト教の歴史から見た観点 も含めて考えてみたいと思います。 クリスチャンの話や本に触れてみますと、そこでは必ず、「イエス様=神ご自身」という考え方があります。なぜならこれが、現在の「正統的な」キリスト教の教義の基本だからです。これは、 「三位一体」 という考えからきています。カトリックもプロテスタントも同様です。

お父様のみ言と、イエス様のゲッセマネのみ言

前回の記事、 「文総裁の妻の位置もいません」お父様最後の講演動画(日本語字幕) でご紹介した、お父様(文鮮明師)のご発言を何度も読み、また、動画でも見てみました。  オモニを私が育ててきたよ オモニはいません。 文総裁の妻の位置もいません。 自分勝手にやっている!! 自分勝手に 聖和の49日前に語られたこの内容ですが、叱咤されるような、厳しい口調です。しかし、また、お父様の悲しみを感じたのは私だけでしょうか?イエス様のゲッセマネでのみ言を思い起こされました。

家庭連合が訴えるなら、彼らのうちに義はない

家庭連合は、真のお父様(文鮮明師)のみ言を捻じ曲げた独生女神学を持って、そのお父様のみ言と伝統を守ろうとするサンクチュアリ教会を逆に異端だと主張しています。彼らは、韓鶴子夫人が、原罪なく生まれた独生女であると主張しています。(ちなみに、日本家庭連合は、2015年10月以前には、韓夫人の発言は違う意味だと主張し、その後、それを覆しこの主張を擁護するように方針転換しています。 過去記事参考 ) 真のお父様は、イエス様と新婦について次のように語られています。 神様のみ旨とは何でしょうか。今まで四千年のユダヤ教の歴史を経ながら、神様は苦労して何を探し求めて、何を復帰したのかというと、堕落する前の血統が汚されていない息子、アダムです。アダム一人、一人の息子を探し出したのです。それゆえコリント人への第一の手紙では、のちイエス様のことを「後のアダム」としています。 神様の救いの歴史は、再び取り戻していく復帰歴史なので、このように四千年の歴史を神様が苦労して、人の世に理解されないその道をたどって、初めてひとり子イエス・キリストが現れたのです。このような事実は、堕落せずに神様の愛を受けられるアダムの立場を復帰したということを意味するのです。 神様は天理の原則に従って、運行されるということを知らなければなりません。アダムを捜し出して新郎になったので、何を捜さなければならないでしょうか。サタン世界からエバ、新婦を捜してこなければならないのです。アダムが誤り夫の役割ができなかったことによって、エバに命令できる立場を、責任を履行できずに奪われたので、サタン世界から捜してこなければならないのです。これを捜してくるためには戦わなければならないのです それを準備するために、国の基盤から、教会の基盤から、氏族の基盤から、家庭的基盤を神様が準備しなければならないのです。そうしてヨセフの家庭とザカリヤの家庭を準備したのです。(114-25、1981.5.14) 「堕落する前の血統が汚されていない息子、アダム」として、イエス様が生まれ、それに対して「サタン世界からエバ、新婦を捜してこなければならない」と語られています。再臨主として来られる方についても、同様のことが起こると考えるのが当然であります。

聖書学習会2:創世記に見る「宇宙の根本」と「救いの予言」

前回のオンライン聖書学習会 に続きまして、第二回目のオンラインセッションを行いました。今回は、創世記から二つの内容を取り上げ、考察してみました。 さて、創世記、Genesisとは、それ自体が「始まり」を意味する言葉であるように、そこにあらゆる要素が凝縮されているとも言えると思います。世界と人間の創造、堕落、そしてその直後に始まる神の救いの摂理が盛り込まれている、1章から3章までの内容から、まず、次の個所をピックアップしました。 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。それで 人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである 。 (創世記/ 2章 22-24節)

これは先祖の罪のせい?などとと悩む前に

何か良くない出来事が起きたときに、人は、天罰、 先祖の罪、また、自分の罪のせいであると考えることがあります。しかし、元々私たちは罪を背負っているのです。キリストに出会い、罪の贖いを受けるまでは、すべてが平等に罪人なのです。 人は言い訳を作りたいのです。何々のせいなのだと。そうすることで、自分の責任を放棄して、一時的な安らぎを得ようとします。

クリスチャン映画「復活」(Risen)を観てきました

映画 「復活」 を観てきました。 この映画の素晴らしいところは、聖書の記述に非常に忠実に描かれているという点だと思います。もちろん、創作の部分もあるのですが、それ自体は、聖書の中の世界観やクリスチャンの信仰観を損なうようなものではなく、新鮮な角度から、イエスの復活を描写するのに成功していると言えるかもしれません。

聖書ことはじめ(旧約と新約、そしてキリストによって書かれた聖書)

聖書にあまり親しみのない人が、聖書を読んだり学んだりする場合に、何かいい資料はないかと探していたのですが、日本聖書協会の新共同訳の聖書の付録に、分かりやすくまとめられた解説がありました。その内容を少し紹介するとともに、それを通して感じたことなどを書きたいと思います。

阻止された女王アタリヤの陰謀

先日、 イスラエル王国(北王国)のアハブ王の時代に行われた、預言者エリヤと異教の預言者たちとの戦い について取り上げました。今回は、その少し後の時代のユダ王国(南王国)でのお話です。 キリストの家系が、ダビデ王から繋がるものであることは、あまりにも有名ですが、それが途絶えそうになった事件があります。それが、今回ご紹介する、 アタリヤ (新共同訳:アタルヤ)の話です。 列王紀下から引用しましょう。

キリスト教弁証学ってどんなもの?

弁証学について ここ でも少し触れましたが、弁証学がどんなものか理解するために、ショーン・マクドウェル氏が解説している内容を、例を挙げて少しご紹介したいと思います。 クリスチャンは、神が世界を作ったと信じていますが、無神論者はこう質問します。 「その神を作ったのは誰なのか?」 と。 皆さんならどのように答えるでしょうか。

預言者エリヤの戦いとサンクチュアリアンの戦い

旧約時代の預言者エリヤは、非常に重要な使命を持った人物だと言えます。例えば、新約聖書のマタイによる福音書だけでも「エリヤ」の名前は9か所も出てきます。イエス様が変貌山で「最後のこと」について話し合ったのは、モーセとエリヤの霊でした(ルカによる福音書/ 9章 30-31節)。 皆さんよくご存じのお話しかとは思いますが、もう一度エリヤの話を吟味してみたいと思います。