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聖書ことはじめ(旧約と新約、そしてキリストによって書かれた聖書)

聖書にあまり親しみのない人が、聖書を読んだり学んだりする場合に、何かいい資料はないかと探していたのですが、日本聖書協会の新共同訳の聖書の付録に、分かりやすくまとめられた解説がありました。その内容を少し紹介するとともに、それを通して感じたことなどを書きたいと思います。

聖書

聖書について、新共同訳聖書の付録では次のような言葉で表現されています。
聖書は,神と人間との歴史における出会いの物語である。この体験物語は・・・
必要に応じて,ヘブライ語,アラム語,ギリシア語の三か国語で記されている聖書は,この神体験の集大成である。
そして、旧約と新約の聖書については次のように説明しています。
新約は旧約に取って替わったとはいえ,新約を理解するためには旧約を知ることがぜひ必要であり,両者は同一の神について語る連続の書である。
さて、聖書を読んでいると、時として矛盾するようなことを感じたりする場合がありませんか。例えば、旧約聖書で時として過酷な命令をされる神と、新約聖書で語られる愛と赦しの神との違いを感じる場合があると思います。

新約聖書、第二コリント3章を読むと、パウロが古い契約と新しい契約について語っています。
実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。 (コリント人への第二の手紙/ 03章 14節)
3章全体を読むと、旧約を否定しているように思える表現もありますが、上でも「おおい」が「キリスト」によって取り除かれると言っているように、そういうわけでもなさそうです。パウロの表現は少しわかりにくいと感じるのですが、イエス様ご自身の次のみ言が、より明確に説明していると思います。
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。(マタイによる福音書/ 5章 17-18節)
このような点から、古い契約と新しい契約は別々のものではなく、その契約自体は単にレベル、次元の異なるものだと言えます。つまり、イエス様が現れるまでの古い契約は、完全なものでなかったわけですが、それまでは必要なものだったというわけです。

そういう意味で、「新約を理解するためには旧約を知ることがぜひ必要であり」 としているのだと思われます。一見理解しづらく感じる旧約聖書の内容も、その中での神と人間との関係性を知ることこそが重要なポイントの一つであり、パウロが言うように「キリストにあって」見るという姿勢が大切だと思います。

そのような、旧約、新約の役割を示す聖句は、いろいろあると思いますが、 新共同訳聖書の付録でも紹介している、次の部分を引用したいと思います。
主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。 (エレミヤ書/ 31章 31-34節)
エレミヤはBC626-586頃の預言者ですが、やがて神と新しい契約を立てる日が来ることを、神の霊によって教えられていたわけです。これは新しい契約の必然性を証明することの一つと言えます。

では、聖書そのものについてはどういうものだと理解すべきかというと、聖書は、霊感によって書かれたものである、と記されています。
聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。(ペテロの第二の手紙/ 1章 20-21節)
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 (テモテへの第二の手紙/ 3章 16節)
史実として、聖書は書き手の異なる多くの書物を集めたものではありますが、それらはすべて唯一の神が導いて書かせたものだ、というわけです。そして、イエス様と聖書の関係について、次の聖句があります。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 (ヨハネの福音書1章1-3節)
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。  (同14節)
これらのことから、クリスチャンは、聖書を書いたのはある意味ではイエス様ご自身だといえると信じているようです。

最後に、亨進様の2016年2月28日の説教「絶対的な神様」(Absolute God)から次の部分を引用したいと思います。
地上におけるヤハウェ(神様)の実体であるイエスがモーセや他の聖書記述者に内容を伝えたということを理論上いうことができ、キリスト教徒は実際そう信じています。それと同様に私たちも真のお父様が聖書を書いたといえなくもないのです。奇妙な話と思うかもしれません。しかし真のお父様が再臨のイエスであることを理解し、イエスは、すべての啓示を与えられた神様の実体であるとするならそういうことが言えるのです。
※「原理講論」の観点からは、旧約、新約について、更に詳しい解説が得られると思いますが、今回は、聖書勉強会で取り上げた内容をもとに、できるだけ聖書のみ言の範囲内で論述しました。


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