前回のオンライン聖書学習会に続きまして、第二回目のオンラインセッションを行いました。今回は、創世記から二つの内容を取り上げ、考察してみました。
さて、創世記、Genesisとは、それ自体が「始まり」を意味する言葉であるように、そこにあらゆる要素が凝縮されているとも言えると思います。世界と人間の創造、堕落、そしてその直後に始まる神の救いの摂理が盛り込まれている、1章から3章までの内容から、まず、次の個所をピックアップしました。
2番目の第一コリントの引用は、逆の意味で不品行をいさめる内容ではありますが、男女間の問題が重要であるという点では同じだと言えるでしょう。パウロも「この奥義は大きい」と、重要性を強調しています。イエス様ご自身のみ言については言わずもがなでしょう。
なお、天聖経の「宇宙の根本」 を読めば、このことが普遍的な真理であることをさらに実感されることでしょうが、今回は聖書がテーマでありますので、その点についてはこれまでとします。
さて、もう一つの部分は、以下の聖句です。
いずれにしても、これは、アダムとエバの堕落直後から、神の救いの摂理は出発していたのであり、神は必ず救いをもたらすことを示している聖句だと言えます。サタンの頭(かしら)は必ずや砕け、敗北するのだと。
学習会では取り上げませんでしたが、ジョシュ・マクドウェル著「徹底検証キリスト教第2巻」(P134)に、同じ部分に関するユダヤ教の史料(タルグム)からの引用がありますので、参考までに引用しておきます。
さて、創世記、Genesisとは、それ自体が「始まり」を意味する言葉であるように、そこにあらゆる要素が凝縮されているとも言えると思います。世界と人間の創造、堕落、そしてその直後に始まる神の救いの摂理が盛り込まれている、1章から3章までの内容から、まず、次の個所をピックアップしました。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。この聖句は、新約聖書の以下の3カ所で引用されています。
(創世記/ 2章 22-24節)
さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
(マタイによる福音書/ 19章 3-6節)
あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
( コリント人への第一の手紙/ 06章 15-20節)
「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。これだけ引用されているということだけでも、重要な聖句だと言えるのではないでしょうか。
( エペソ人への手紙/ 05章 31-33節)
2番目の第一コリントの引用は、逆の意味で不品行をいさめる内容ではありますが、男女間の問題が重要であるという点では同じだと言えるでしょう。パウロも「この奥義は大きい」と、重要性を強調しています。イエス様ご自身のみ言については言わずもがなでしょう。
なお、天聖経の「宇宙の根本」 を読めば、このことが普遍的な真理であることをさらに実感されることでしょうが、今回は聖書がテーマでありますので、その点についてはこれまでとします。
さて、もう一つの部分は、以下の聖句です。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。これは、ご存知の方も多いと思いますが、キリスト教では、メシアの出現の予言であるとも考えられています。神が蛇に語られた言葉ですので、「おまえ」とは、蛇、すなわちサタン、堕天使を意味します。そして蛇でも女(エバ)でもない「彼」とは、サタンのかしらを砕くわけですから、その反対の勢力、神側の子孫を意味し、キリストであるとも考えられるわけです。「かかとを砕く」とは、足を引っ張るとか罠にはめるというような意味があります。十字架をすべての救いと考えるクリスチャンは、イエスの十字架を意味すると捉える説もあるようです(十字架刑では、両手首と足首を釘で打ち付けます)。
(創世記/ 3章 15節)
いずれにしても、これは、アダムとエバの堕落直後から、神の救いの摂理は出発していたのであり、神は必ず救いをもたらすことを示している聖句だと言えます。サタンの頭(かしら)は必ずや砕け、敗北するのだと。
学習会では取り上げませんでしたが、ジョシュ・マクドウェル著「徹底検証キリスト教第2巻」(P134)に、同じ部分に関するユダヤ教の史料(タルグム)からの引用がありますので、参考までに引用しておきます。
ユダヤ教の史料(タルグム)・・・オンケロスの創世記3:15に関する箇所はこうなっている。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。女の子孫はおまえのことを、おまえが初めのときから(初めのときに)彼にしたことを忘れず、おまえは終わりには従わされる」(Ethridge, TOJ,41)。最後に、これも学習会でも取り上げる時間はありませんでしたが、創世記のヨセフの路程(37章から)については、以前、パンザー会長が亨進様の路程との類似性についてエッセイを書いておられます。ヨセフの路程を読んだことのない方や、読んだけど忘れてしまった方は、読んでおくと良いかもしれません。
ユダヤ教の史料(タルグム)・・・偽ヨナタンの創世記3:15はこうなっている。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。女の子孫が律法の命令に従うとき、彼らは(おまえへの)的を外さず、おまえの頭を打つ。しかし、彼らが律法の命令を捨てるなら、おまえが(彼らへの)的を外さず、彼らのかかとを傷つける。しかし、彼らには救いがあるのに対し、おまえにはない。やがて王、メシヤの時代に彼らはかかとと和解する」(Bowker, TRL, 122)。
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