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2016年6月23日木曜日

亨進様とダビデの路程

リチャード・パンザー会長が、「亨進様とヨセフの路程(英文)」(日本語訳はこちら)というすばらしいエッセイを書かれていますが、聖書の中の一つひとつの物語には、天の摂理のエッセンスが込められており、現在の私たちの歩みの中でも、通じるものがたくさんあると感じます。

パンザー会長の域には程遠いですが、私も聖書に基づく一つのエッセイとして、「亨進様とダビデの路程」について書いてみたいと思います。

ダビデ像
ダビデ像
(Nicolas Cordier作、
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
(Wikipediaより)

主の言葉を捨てたサウル王

イスラエル王国の初代王サウルは、神様のみ言を軽んじたために摂理から外れました。原理講論を読めば、サウルの失敗がイスラエル王国の分裂へとつながり、ひいては何百年もの蕩減の道につながったことが分かります。
サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。
(サムエル記上/ 15章 22-23節)
サウルは「主のことばを捨てた」ために、王の位置から退けられたことを宣言されました。同様に、韓鶴子氏は、真のお父様(文鮮明師)のみ言を捨て(改竄)、真の母の位置を失ったと言えます。同時に全世界が7年の患難を通過することになりました。

末の息子・神は心を見る

その後、新たな王として神様に選ばれ、サムエルを通して油を注がれるのがダビデですが、ダビデはエッサイの息子たちのうち、最も幼い者でした。
エッサイは七人の子にサムエルの前を通らせたが、サムエルはエッサイに言った、「主が選ばれたのはこの人たちではない」。サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。
(サムエル記上/ 16章 10-13節)
父であるエッサイが最初からダビデを呼んでいなかったことから、ダビデはそれだけ幼く、重要視されていなかったに違いありません。しかし、神様の選ばれる観点は違いました。その心を見ていたのです。お父様が、亨進様の心を見て、相続者として宣布されたように
しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。
(サムエル記上/ 16章 7節)
ちなみに、サムエル記では、ダビデは八男ということになりますが、歴代志では七男ということになっています。(歴代志上/ 2章 13-15節)

ヨナタンとの心情一体化

サウルの息子ヨナタンは、ダビデの親友でした。ヨナタンは、ダビデを殺そうとする父サウルを説得してやめさせ、また、ダビデを安全に逃がす手助けをしました。どのような経緯で二人がそのような親密な関係になったのかについての記述は、聖書にありませんが、カインアベル一体化の摂理があったのではないかと推測します。
サウルはその子ヨナタンおよびすべての家来たちにダビデを殺すようにと言った。しかしサウルの子ヨナタンは深くダビデを愛していた。
(サムエル記上/ 19章1節) 
そしてヨナタンは重ねてダビデに誓わせた。彼を愛したからである。ヨナタンは自分の命のように彼を愛していた。
(サムエル記上/ 20章 17節)
ヨナタンは、「自分の命のように」ダビデを愛していました。これは、最上級の愛です。國進様と亨進様も、完全に一体化されました。國進様は、亨進様を守るために最大限に尽力されました。またお父様は、2012年6月5日に國進様と亨進様がカインとアベルとして一体化したことを宣言し、四次元世界へと入る特別な宣布をされています。


ゼロからの出発

サウルに命を狙われ、ダビデは逃亡者となります。食料も武器も何も持たずに、荒野や洞窟に逃れます
ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。
(サムエル記上/ 21章 1節) 
ダビデには供をする者もいませんでした。
ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」。
(サムエル記上/ 21章 3節)
ダビデは、食べ物もなく、供え物のパンを祭司に恵んでもらいました。武器も持っておらず、たまたまそこに置いてあった、ゴリアテの剣を手に入れます。

亨進様もすべてを捨て、銀行口座も閉めて、ペンシルベニアの荒野へと旅立ちました。そこには國進様のご家庭しか他にいませんでした。

そして、ダビデに少数の仲間が加わります。
こうしてダビデはその所を去り、アドラムのほら穴へのがれた。彼の兄弟たちと父の家の者は皆、これを聞き、その所に下って彼のもとにきた。また、しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。おおよそ四百人の人々が彼と共にあった。
(サムエル記上/ 22章 1-2節)
「しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々」 とは誰のことでしょうか。サンクチュアリ教会も本当にわずかな人数からスタートしました。

ダビデの勝利・真の王として

多くの苦難を乗り越え、ダビデは全部族の王として改めて油を注がれます(サムエル記下/ 5章 1-12節)。ダビデはそれ以前に既に、サムエルを通して油を注がれていました亨進様も、お父様から三回の戴冠を受け、相続者、代身者としての資格を受けていました。そして、本来なら韓鶴子氏から王として戴冠されるはずでしたが、それが果たされず、2015年8月30日に國進様から戴冠され、二代王となられました。ダビデも二代目の王でした。ダビデの神殿建設の構想が、三代王ソロモンに受け継がれて成されたように、三代王となるべき信俊様において、すべてが完成されることになります。

ダビデは、二度もサウルを打つ機会がありましたが、自ら手を下すことはありませんでした。もともとは主によって油注がれたサウルであったので、その審判を主に委ねたのでした。敵に囲まれたサウルは、自分の手で滅んでいきます。同様に、お父様から離れた家庭連合も、組織としては自滅の道を行く他ありません。

神様は、すべての人の幸福を願う方でありますので、家庭連合に残る個々人が真実の道に気付き、お父様のもとへと帰って来られることを祈りたいと思います。
わたしはわが兄弟には、知らぬ者となり、わが母の子らには、のけ者となりました。あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりが/わたしに及んだからです。わたしが断食をもってわたしの魂を悩ませば、かえってそれによってそしりをうけました。わたしが荒布を衣とすれば、かえって彼らのことわざとなりました。わたしは門に座する者の話題となり、酔いどれの歌となりました。しかし主よ、わたしはあなたに祈ります。神よ、恵みの時に、あなたのいつくしみの豊かなるにより、わたしにお答えください。
(詩篇/ 69篇 8-13節) 

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