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2016年6月20日月曜日

三位一体 - イエスは神ご自身か

非クリスチャンだった方(食口)がキリスト教を勉強すると、いくつかの問題にぶつかることがあるかもしれません。その一つが、イエス様は神ご自身か?という問題です。原理講論を読めば、分かることではありますし、多くの賢明な皆様には「釈迦に説法」かもしれませんが、キリスト教の歴史から見た観点も含めて考えてみたいと思います。

クリスチャンの話や本に触れてみますと、そこでは必ず、「イエス様=神ご自身」という考え方があります。なぜならこれが、現在の「正統的な」キリスト教の教義の基本だからです。これは、「三位一体」という考えからきています。カトリックもプロテスタントも同様です。


「三位一体」の「三位」とは、父と子と聖霊のことです。言い換えれば、「神」、「イエス」、「聖霊」の三者(三つの位格・人格)となります。その意味については、Wikipediaによれば次のようにあります(注釈番号と括弧内の記述を一部省略)。
三位一体論をめぐり整理された定式において、神は、一つの実体と、「父なる神」・「ロゴス」である子なる神(イエス・キリスト)・および「聖霊(聖神)」の三つの位格において、永遠に存在すると言い表されている。
箇条書きにすれば
    神の実体は一つ
    神の位格は三つ
    三つの位格(個位)
        父なる神(神父)
        子なる神(イエス・キリスト、神子)
        聖霊(神聖神)
となる。
第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)の頃から第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)の頃にかけて、こうした三位一体論の定式が(論争はこの二つの公会議が終わった後もなお続いていたが)整理されていった。
これは論理とかなんとかいうよりも、それ自体が信仰の対象というようなものだと言えます。上述のWikipediaのページにも、「三位一体論の難解さ」という項目があり、次のように記述されています。
三位一体論が難解であることはキリスト教会においても前提となっている。
正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。
カトリック教会においても、神は自身が三位一体である事を啓示・暗示してきたが、神自身が三位一体であることは理性のみでは知り得ないだけでなく、神の御子の受肉と聖霊の派遣以前には、イスラエルの民の信仰でも知り得なかった神秘であるとされる。
左側は1210年頃に描かれた図式を抽出したもの。
右側は20世紀末のプロテスタントの書籍に使われた図式。
(Wikipediaより)
「父と子と聖霊」という言葉については、聖書に確か一か所だけ(マタイによる福音書/ 28章 18-20節)出てきますが、実は、「三位一体」という言葉は出てきません。これは人によって「作られた」言葉なのです。

ゆえに、「三位一体」というのは、実際は聖書解釈における一つの「説」に過ぎないわけです。問題は、最初にWikipediaから引用した部分の終わりにもあるように、これが公式的な解釈として「公会議」で権威付けられ、これを否定する者は異端であるとする考えが伝統的に引き継がれてきたということにあります。

「公会議」を最初に主導したコンスタンティヌスは、初めてキリスト教に改宗したローマの皇帝であり、カトリックでは聖人とされています。その後、キリスト教が国教化されたことを考えると、神様の摂理において非常に重要な分岐点であったと言えます。そのような観点では偉業をなしたと言えるでしょう。しかし、コンスタンティヌスは、どちらかと言えばキリスト教を政治利用したという要素が強いと言えます。そして、結果的に、公会議において、「三位一体」を否定する少数派は退けられました。政治と強く結びついて決定された教義が、キリスト教の中心的な教義として、その後も1600年以上「伝統的に」受け継がれてきたとも言えます。
コンスタンティヌス1世の頭像
(カピトリーノ美術館所蔵)
(Wikipediaより)
以上のことから、まとめますと、キリスト教における「三位一体」は、聖書自体にあったものではなく、一つの説が政治権力と結びついて権威付けられ、伝統的に信仰されてきたものであることをご理解いただけたと思います。ここでは、「三位一体」を否定しようという意味ではなく、それが必ずしも絶対的なものとは言えないということを示すものです。

さて、「イエス様は神ご自身か」という問題について、原理講論によれば、結論としては、「否」という答えになります。これについての詳細と、「三位一体」、「聖霊」に対する新たな解釈については、私が稚拙な文章で説明するより、ご自分で原理講論の「キリスト論」をお読みいただくということにしたいと思いますが、それ以外の聖書の記述で、原理講論における主張を裏付けるような聖句を以下にご紹介しましょう。
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
(ヨハネによる福音書/ 10章 34-36節)
これは、イエス様が語られたみ言です。 イエス様が引用されたのは、次の詩編の聖句でしょう。
アサフの歌
神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる。「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ
弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。地のもろもろの基はゆり動いた。わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。神よ、起きて、地をさばいてください。すべての国民はあなたのものだからです。
(詩篇/ 82篇)
イエス様ご自身が、自分以外の人間を神と呼ぶ「律法」のみ言を引用されているこの聖句は、、原理講論でいうように、人間が堕落せずに完成していたら本来はすべての人が「神の子」になっていたはずであったことを表しているのではないかと思われます。

しかし、現実には、イエス様以外には原罪なく生まれた方はいなかったのであり、神様と完全に一つになった人間も他にいなかったので、私たちのような原罪を持った人間から見たら、イエス様が神様そのもののように思えたのだと思います。そして、「聖霊」が何かということをイエス様ははっきり語ることができなかったので、不完全な「三位一体」が生み出されたのではないでしょうか。

この主張は、必ずしも従来のキリスト教の信仰を否定するものではない、ということを示すために、原理講論から以下の内容を引用して終わりたいと思います。
原理は、これまで多くの信徒たちが信じてきたように、イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また原理が、イエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間であると主張したとしても、彼の価値を決して少しも下げるものではない。ただ、創造原理は、完成された創造本然の人間の価値を、イエスの価値と同等の立場に引きあげるだけである。
(第七章 キリスト論、第二節 創造目的を完成した人間とイエス、(二) 創造目的の完成から見た人間とイエス)


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