何か良くない出来事が起きたときに、人は、天罰、 先祖の罪、また、自分の罪のせいであると考えることがあります。しかし、元々私たちは罪を背負っているのです。キリストに出会い、罪の贖いを受けるまでは、すべてが平等に罪人なのです。
人は言い訳を作りたいのです。何々のせいなのだと。そうすることで、自分の責任を放棄して、一時的な安らぎを得ようとします。
そして、時として不条理な出来事も、私たちのとらえ方次第で、悪を善に変えることができると、聖書(ヤコブの息子ヨセフの言葉)は教えています。
人は言い訳を作りたいのです。何々のせいなのだと。そうすることで、自分の責任を放棄して、一時的な安らぎを得ようとします。
シロアムの池の遺跡 |
ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。この聖句にあるように、罪や責任を相対的に比較することはできないと、イエス様は言っておられます。他人に起きたことであろうと、自分に起きたことであろうと、比較は意味がありません。神だけを見つめることが重要です。キリストによって再び生まれた自分にしか、価値はありません。
(ルカによる福音書/ 13章 1-5節)
そして、時として不条理な出来事も、私たちのとらえ方次第で、悪を善に変えることができると、聖書(ヤコブの息子ヨセフの言葉)は教えています。
あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。 (創世記/ 50章 20節)亨進様は、患難は始まったばかりだと語られます。外的な準備も必要でありますが、み言をもって、内的に備えていきたいものだと思います。安永教会の井上教会長の証しにもありましたように、苦難の時にこそ、キリストをつかんで離さないという信仰を、持ちたいものだと思います。
神は、罪の大小・多寡で人間を見てるのではない。そうではなくて、「悔い改め」の有無を見ようとしている、ということですね?何かにつけて先祖の因縁でものごとを捉えやすい日本人(食口)にとって、この聖句(ルカ13/1~5)は、とても心に引っ掛かります。
返信削除コメントありがとうございます。先祖の因縁というのはあると思いますが、人によってそれぞれ使命があるので単純に比較は出来ないということと、自分自身が責任を持つという姿勢について自戒する意味でこの聖句を取り上げてみました。
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