松波孝幸氏 |
まず、次の松波講師の説明の引用文とスライドをご覧いただきましょう。
「聖書の中にそして私たちの表現の中には天のお母様に対する表現は不在でありました。ここには歴史的に色々な意味が背後にございます。
堕落以後、エバが本然の価値を失って人間の堕落の最初の道を開いてしまったためにその蕩減の課題を背負ってエバが非難を受けてきたということもございます。
また、男性が力を持つようになり、エバが完全に男性の主管圏に入ってしまったためにサタンの主管圏に男性を通じて入ってきたためにエバを、新婦を探すことができなかったと。地上で天のお母様が現れることのできる基盤を立てることができず、長い歴史を通じてその時を待ってきたんだということができます。」
「天のお母様が現れる」という表現や「天のお母様は前面に出ないで、天のお父様が戦いを導くようにしておいた。」(スライド)という表現から、彼らは神様を「天のお父様」と「天のお母様」の二つに分離してとらえていると言えます。「天のお母様は前面に出ないで、天のお父様が戦いを導くようにしておいた。」というのですから、別の人格(的性質)を持った二つの存在であると解釈していると考えられます。
これは、以前も別の記事で解説しましたが、原理講論における「二性性相の中和的主体」という定義からかけ離れたものに思えます。亨進様が最近の説教でヒンズーの男女両性の神(あしゅら男爵みたいな・・・)を例に挙げておられますが正にその通りで、もはや「二性性相の中和的主体」とは言えないものになってしまっています。
次に、天のお母様はどなたなのか?というこで家庭連合は次のように解説しています。
「天のお母様はどなたなのでしょうか?真のお母様は真の父母様が前面に立たれてから、そのあとから表れていらっしゃいました。天のお母様は神様の中にあられる、真のお父様とも少し異なる細心で内面の世界を持っていらっしゃる方でございます。」そしてこの解説の根拠として次のお父様のみ言を紹介しています。
「神様は外的に男性に似ていますが、内的には女性に似ているというのです。神様が強くて全知全能であったりもしますが、お釈迦様が笑う笑みに、花を刺繍することができる慈悲の心もあるというのです。女性の中の女性の心もなければならないというのです。それでこそ両面がすべて生きるのです。」この二つをよく比べてみますと、後者のお父様のみ言は明らかにただお一人の神様の中に男性的な性質だけでなく、女性的な性質もあることを説明しているのに対して、前者の講師の解釈では「天のお母様」は「神様の中にあられる」とは言っているものの、「真のお父様とは異なる」別の「方」であるという何とも分かりにくい説明になっています。もう少しちゃんとした説明をしてもらいませんと話になりません。
(206-49、1990.10.3)
次に原理原本のお父様のみ言についてのスライドです。二つあります。み言を根拠に、「神様を天のお父様と信じるのは不完全を現す」、「天の父母様としての神様の実体が分からない人間に対する天の父の悲しみ」を主張しています。
これに対して、以下の真のお父様のみ言を引用して比較してみたいと思います。
私たちは、今新しい「後天時代」を迎え、真の愛を中心として神様を完成させてあげなければなりません。神様ご自身に未完成の部分が残っているという意味ではなく、完全な主体であられる神様の前に対象として創造された私たち人間も、完全な対象、すなわち絶対価値を備えた真の対象にならなければならないという意味です。すでにその位置にいらっしゃる真の父母様に似て、神様が絶対的位置で絶対相対を確保し、解放をお受けになるように、真の理想家庭の愛の主人になることが私たちの責任です。(2004.7.16 「後天時代の生活信仰」15ページ)このみ言から、神様を完成させてあげるというのは、神様ご自身に欠けたところがあるというのでなく、完成した人間、真の父母が神様の完全な愛の対象となることで「神様の完成」をもたらす、ということだと言うことができます。
また、原理原本にあるお父様のみ言をよく読めば、このような神様と人間の関係性において「不完全」であり、「悲しみ」であったことがわかるのではないでしょうか?お父様も「天のお父様の痛い苦痛」と表現され、天のお母様や天の父母様という概念は出てきません。自分でも「天の父母様としての神様の実体が分からない人間に対する天の父の悲しみ」とタイトルをつけてしまったのはうっかりミスなのか、み言に忠実に従ったのか知りませんが、いかに自己矛盾に満ちた主張かを示すものでしょう。
「母のいない父」「お母様のいないお父様」というのは、神様の代身である完成アダムがその相対であるエバと一つとなることで結果的に神様が母すなわち実体の相対を持つはずだったのが、堕落により奪われてしまったことを言っているのではないでしょうか?
次に、聖書についての解説です。
「聖書の中からは、残念ながら神様を天のお母様と描写する内容はほとんど探すことができないと、ドクター・アンドリュー・ウィルソンが指摘しておられます。何故なのかというと聖書を書いたのがほとんどが男性でございます。ほとんどすべて男性が聖書を書いていると。」これを見ますと、 どうやら「天のお母様」というのは男性には理解できないもののようです。これに続いて、以下のように言っています。
「また、原理講論をみましても復帰に対する理解は天のお母様を含んだ表現になっておられません。真のお父様の説教の中には女性を中心とした神様の摂理が出てまいりますが、少なくとも原理講論の中にはその表現はほとんどなかったということでございます。」原理講論については「天のお母様」を表現したものがないことを認めながらも、理由の説明や釈明は放棄しています。真のお父様の説教に女性を中心とした摂理の話が出てくることは、直接「天のお母様」と関係があるとは言えません。
次に、原理講論の中に預言があるという、タイラー・ヘンドリックス博士による主張の解説です。
「原理講論の中に預言があります。
原理講論には神様の摂理が男性-女性関係の変化をもたらすという預言があります。
すなわち通常の歴史的男女の関係の見解を根本から大きくひっくり返すという預言でございます。預言は次の通りです。」
それゆえに、イエス再臨以後の完成成約時代は、妻の時代、すなわち、雌牛の時代であることを知らなければならない。(原理講論321ページ)この原理講論からの引用部分は、ここだけ読んでもあまり意味があるとは思えませんので少し前の部分から引用しましょう。これは後編第一章「復帰基台摂理時代」、第三節「アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理」にあります。
イエスは、全人類の新郎として来られたので、彼が再臨なさるまでの信徒たちは、来られる新郎の前に新婦とならなければならない。しかし、新婦なる信徒たちが再臨される新郎イエスと小羊の宴を終えたのちには、新婦ではなく妻となり、夫であるイエスと共に、天国生活をするようになるのである。それゆえに、イエス再臨以後の完成成約時代は、妻の時代、すなわち、雌牛の時代であることを知らなければならない。ゆえに、雌牛は、とりもなおさず、完成を象徴するのである。多くの霊通者たちが、現代は牛の時代であると、啓示を受ける理由は、正にここにあるのである。これを見て分かるように、ここでの新婦、妻とはキリスト教の信徒(再臨主を受け入れたのちは成約の信徒となる)のことを意味しています。これを持って男性-女性関係の変化をもたらす、歴史的男女の関係の見解を根本から大きくひっくり返す預言であるというのはいささか無理があると言わざるを得ません。タイラー・ヘンドリックス博士個人が受けた啓示だと主張するのならまだわかりますが、公に客観的に認められるようなものとは言い難いです。
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