2016年3月6日の亨進様の説教で、アーミッシュのことが出てきました。 以前ペンシルベニアのことを調べているときにアーミッシュのことも気になっていたので、いろいろと調べてみました。ここでは、アーミッシュについての簡単な紹介と亨進様の説教で強調されていた彼らの「自給自足」の生活などについて少し紹介してみたいと思います。
今回、私が参考にしたのは、「アーミッシュ」(著者:堤純子、出版社:未知谷) という書籍です。
初期の再洗礼派は武装してカトリック教会と戦っていましたが、メノ・サイモンズ(シモンズ)という元カトリック司祭が非暴力を訴えて彼が中心となり、彼らはメノナイト(メノナイト派は現在も存続しており、日本にも教会があるようです。)と呼ばれるようになります。そして、その後、ヤコブ・アマンという主教が教義違反者の処遇をもっと厳しくすべきだと主張してメノナイトから独立する形でアーミッシュを設立しました。
その頃、新大陸アメリカでは、ウィリアム・ペンが率いるクエーカー派のグループがやはり宗教弾圧から逃れるべく北アメリカに移住していました。ペンは現在のペンシルベニアとなる土地を受領し、そこに同じように迫害に苦しむ人々を呼び込んだのです。(ペンシルベニアのペンはウィリアム・ペンの名前が由来)こうして、アーミッシュたちもアメリカ、ペンシルベニアへと入植することになります。
現在では、約20万人のアーミッシュがペンシルベニアだけでなくオハイオ州など複数の州にそれぞれ共同体を作って生活しています。
ここで詳細に書きませんが、他にも使用NGなものや制約もかなり事細かにあります。こういったルールは不文律としてそのコミュニティの中で代々伝わっているそうです。その厳しい不文律とコミュニティの結束が彼らを数百年の間、一般社会から分離して存続させたのかもしれません。
また、彼らはペンシルベニア・ダッチと呼ばれる古ドイツ語を日常会話で使用し、礼拝はハイ・ジャーマンと呼ばれる北部ドイツ語が用いられます。
そしてこのような生活を支えているのは、コミュニティ内での相互扶助です。お互いに助け合うことなしに、このような自給自足の生活を成立させるのは困難だと言えます。火事で納屋が焼けてしまっても、すぐに隣人や周辺の人々が片づけに駆けつけ、1週間後には300人もの人々が集まって納屋作りが行われます。
このような助け合いも、やはり聖書の教えに根差したものであり、コミュニティ内の助け合いにとどまらず、地域の消防団活動や、世界中の難民に物資を送る活動なども盛んに行われています。
聖書の教えはもちろんですが、ヨーロッパでの厳しい迫害や入植当時の厳しい生活などの中で仲間との絆がアーミッシュの存続に不可欠であったことから、そのような強いつながりを持ったコミュニティを生んだのだろうと考えられます。
(後編につづく)
今回、私が参考にしたのは、「アーミッシュ」(著者:堤純子、出版社:未知谷) という書籍です。
アーミッシュの歴史
宗教改革が起こった16世紀はじめに、再洗礼派のスイス兄弟団と呼ばれる人々がローマカトリック教会の厳しい迫害に追われながら活動していました。再洗礼とは幼児洗礼を否定し、自分たちの自由意思で互いに洗礼し合って初めて真のクリスチャンになるという考えから出たものです。初期の再洗礼派は武装してカトリック教会と戦っていましたが、メノ・サイモンズ(シモンズ)という元カトリック司祭が非暴力を訴えて彼が中心となり、彼らはメノナイト(メノナイト派は現在も存続しており、日本にも教会があるようです。)と呼ばれるようになります。そして、その後、ヤコブ・アマンという主教が教義違反者の処遇をもっと厳しくすべきだと主張してメノナイトから独立する形でアーミッシュを設立しました。
その頃、新大陸アメリカでは、ウィリアム・ペンが率いるクエーカー派のグループがやはり宗教弾圧から逃れるべく北アメリカに移住していました。ペンは現在のペンシルベニアとなる土地を受領し、そこに同じように迫害に苦しむ人々を呼び込んだのです。(ペンシルベニアのペンはウィリアム・ペンの名前が由来)こうして、アーミッシュたちもアメリカ、ペンシルベニアへと入植することになります。
現在では、約20万人のアーミッシュがペンシルベニアだけでなくオハイオ州など複数の州にそれぞれ共同体を作って生活しています。
一般社会からの隔絶
アーミッシュの信仰は聖書の内容を忠実に守ることが基本になっています。それはある面原理主義的とも言えるでしょう。例えば、なぜ一般社会と隔絶した暮らしをして電気や車などの文明の利器を使用しないのか?それは次の聖句に基づくものです。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。(ローマ人への手紙 12章2節)現実には、様々な解釈と協議がなされ、その違いによってアーミッシュといってもオールドオーダー、ニューオーダーなど様々なグループに分かれているそうです。さらにその中でも教区によっての違いなどもあるようですのですべてをひとくくりにはできません。例えば地域やコミュニティによっては電話や自動車がOKなところもあるそうです。
ここで詳細に書きませんが、他にも使用NGなものや制約もかなり事細かにあります。こういったルールは不文律としてそのコミュニティの中で代々伝わっているそうです。その厳しい不文律とコミュニティの結束が彼らを数百年の間、一般社会から分離して存続させたのかもしれません。
また、彼らはペンシルベニア・ダッチと呼ばれる古ドイツ語を日常会話で使用し、礼拝はハイ・ジャーマンと呼ばれる北部ドイツ語が用いられます。
自給自足のコミュニティ
これが亨進様が評価されていた部分になりますが、基本的には彼らは農場や畜産を営み、自給自足の生活をしています。服も、家具も自分で作り、納屋も共同体で助け合って作ります。そして徹底した再利用。例えば使い込んだ服は、捨てるのではなくマットにしたりバラバラにしてキルティング材料などにします。家も、年取った年長者は母屋を子供に譲って離れに移るということを繰り返します。彼らも使用が認められた機械(多くは単純なもの)を使うことがありますが、たいていのものは自分たちで修理してしまいます。そしてこのような生活を支えているのは、コミュニティ内での相互扶助です。お互いに助け合うことなしに、このような自給自足の生活を成立させるのは困難だと言えます。火事で納屋が焼けてしまっても、すぐに隣人や周辺の人々が片づけに駆けつけ、1週間後には300人もの人々が集まって納屋作りが行われます。
このような助け合いも、やはり聖書の教えに根差したものであり、コミュニティ内の助け合いにとどまらず、地域の消防団活動や、世界中の難民に物資を送る活動なども盛んに行われています。
聖書の教えはもちろんですが、ヨーロッパでの厳しい迫害や入植当時の厳しい生活などの中で仲間との絆がアーミッシュの存続に不可欠であったことから、そのような強いつながりを持ったコミュニティを生んだのだろうと考えられます。
(後編につづく)
コメント
コメントを投稿