父親が羊を盗んだときに、その正直な子が父親を訴えたという話を聞いた孔子は、次のように語ったそうです。
「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。」
つまり、親子の間柄ではその罪を隠すことが「直き」ことだというわけです。この内容は大きな議論を呼ぶものかもしれません。本当にこれが正しいことでしょうか。単純に「羊を盗んだ」というだけの状況で、隠すことが常に正しいことだと言えるのでしょうか?隠すことが認められるような条件というものがあるとすれば、どんな条件でしょうか?
この父親が罪を自覚し、心の底から悔い改めているのであれば、あるいは隠すことが受け入れられる状況もあるという考えもあるかもしれません。しかし、盗まれた人の立場はどうなるでしょうか?この場合、盗まれた人に羊を返すか、返せないなら同等の補償をして、許しを請う必要があるでしょう。ここまで来ると、もはや「隠す」状況にないと言えるかもしれませんね。少なくとも、現代社会で言えば捜査機関に告発したりはしておらず、示談にしているわけなので、そういう意味では「隠す」という状況であるとも言えます。
果たして孔子は、どこまで「隠す」ことを意図して言っていたのでしょうか?少なくとも捜査機関のような行政機関に告発しなければ、訴えることにならないのかもしれません。しかし、被害者に打ち明けた場合に、被害者が告訴する場合もあるでしょうから、結果として訴えることになるので、そのような論理からすると完全にだんまりを決め込むべし、ということになります。
しかし、羊を盗んだぐらいならまだしも、殺人を犯した場合はどうでしょうか?ニースのトラックテロのように何十人もの罪のない人の命を、ただそこにいたという理由で奪ったとしたらどうでしょうか?それでも隠ぺいすることが良しとされるのでしょうか。
自分で考えてみた結論ですが、本当にその家族を愛しているなら、自首するように説得するのがベストのように思います。
さて、2016年8月7日の亨進様の説教(Kingdom of the Redeemed)でも、語られていたのですが、亨進様は韓お母様を本当に愛するからこそ、このままでは韓お母様の行く末がとんでもないことになってしまうことが分かるので、その過ちを強く糾弾されておられます。決してお母様が憎くて、あのような厳しい言葉で断罪されているのではありません。道を誤って導かれている家庭連合の食口に対しても同様です。どれだけ彼らを愛しておられることか、今回の説教を通してもよくわかると思います。
今回テーマにした論語の内容は、確か山本七平の本の中でも、日本人の「空気」について述べている内容で取り上げられていました。日本人は、この論理を、国家のレベルにまで当てはめてしまったために、軍国主義の道を進んで行ってしまったというような話だったと思います。
お母様が犯してしまった過ちに、うすうす気づいている家庭連合の方もいるのではないでしょうか。それに気づきながらも、正しい道を模索し、吟味してみようとしないのは、もしかしたら、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」という儒教的な呪縛に囚われてしまっているからなのかもしれません。しかし、神様は一つであり、神様の義も一つしかありません。隠しただけでは何も解決するわけではないのです。気づきながら、家庭連合に残って韓お母様を支えようとでも思っているなら、江利川さんが実行されたように、過ちを悔い改められるよう説得するのが筋というものではないでしょうか。それもできない(一般信徒にはもちろん困難なことでしょう)というのであれば、どうすべきかもう一度考えてみていただきたいものです。
また、その過ちに気づかないとすれば、亨進様の言われていたように、本当に悪霊に取り憑かれてしまっているのかもしれません。
「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。」
孔子の像 |
この父親が罪を自覚し、心の底から悔い改めているのであれば、あるいは隠すことが受け入れられる状況もあるという考えもあるかもしれません。しかし、盗まれた人の立場はどうなるでしょうか?この場合、盗まれた人に羊を返すか、返せないなら同等の補償をして、許しを請う必要があるでしょう。ここまで来ると、もはや「隠す」状況にないと言えるかもしれませんね。少なくとも、現代社会で言えば捜査機関に告発したりはしておらず、示談にしているわけなので、そういう意味では「隠す」という状況であるとも言えます。
果たして孔子は、どこまで「隠す」ことを意図して言っていたのでしょうか?少なくとも捜査機関のような行政機関に告発しなければ、訴えることにならないのかもしれません。しかし、被害者に打ち明けた場合に、被害者が告訴する場合もあるでしょうから、結果として訴えることになるので、そのような論理からすると完全にだんまりを決め込むべし、ということになります。
しかし、羊を盗んだぐらいならまだしも、殺人を犯した場合はどうでしょうか?ニースのトラックテロのように何十人もの罪のない人の命を、ただそこにいたという理由で奪ったとしたらどうでしょうか?それでも隠ぺいすることが良しとされるのでしょうか。
自分で考えてみた結論ですが、本当にその家族を愛しているなら、自首するように説得するのがベストのように思います。
さて、2016年8月7日の亨進様の説教(Kingdom of the Redeemed)でも、語られていたのですが、亨進様は韓お母様を本当に愛するからこそ、このままでは韓お母様の行く末がとんでもないことになってしまうことが分かるので、その過ちを強く糾弾されておられます。決してお母様が憎くて、あのような厳しい言葉で断罪されているのではありません。道を誤って導かれている家庭連合の食口に対しても同様です。どれだけ彼らを愛しておられることか、今回の説教を通してもよくわかると思います。
今回テーマにした論語の内容は、確か山本七平の本の中でも、日本人の「空気」について述べている内容で取り上げられていました。日本人は、この論理を、国家のレベルにまで当てはめてしまったために、軍国主義の道を進んで行ってしまったというような話だったと思います。
お母様が犯してしまった過ちに、うすうす気づいている家庭連合の方もいるのではないでしょうか。それに気づきながらも、正しい道を模索し、吟味してみようとしないのは、もしかしたら、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」という儒教的な呪縛に囚われてしまっているからなのかもしれません。しかし、神様は一つであり、神様の義も一つしかありません。隠しただけでは何も解決するわけではないのです。気づきながら、家庭連合に残って韓お母様を支えようとでも思っているなら、江利川さんが実行されたように、過ちを悔い改められるよう説得するのが筋というものではないでしょうか。それもできない(一般信徒にはもちろん困難なことでしょう)というのであれば、どうすべきかもう一度考えてみていただきたいものです。
また、その過ちに気づかないとすれば、亨進様の言われていたように、本当に悪霊に取り憑かれてしまっているのかもしれません。
悪魔は、なぜ神様を憎むのですか。神様は、なぜ悪魔を憎むのですか。キリスト教の論理でいえば、キリスト教は「怨讐を愛せよ」と言っているのに、神様は怨讐であるサタンをどうして愛することができないのでしょうか。愛の怨讐を愛せば、天地がなくなるというのです。治める法がなくなります。存在する法がなくなるのです。
「天聖経、 宇宙の根本」より 真のお父様のみ言
なるほどですね。いい内容でした。
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